千里眼事件は、1910年、明治43年頃に起こり、透視の公開実験が行われ、真偽を巡り学者同士が争い、社会的にも大きな注目を集めた騒動です。
東京帝国大学の心理学者 福来友吉(ふくらいともきち)が、御船千鶴子(みふねちづこ)、長尾郁子、高橋貞子の3人に対して、鉛製の管などに紙を入れ、何が書かれているかを透視したり、未現像の写真乾板への念写などが実験として行われました。
実験には、どこか疑う余地が残り、思うような成果を上げることもできず、新聞や世間の批判からか、御船千鶴子は服毒自殺で亡くなっています。
写真乾板は、昔、白黒写真を撮影する時に使われたものです。感光する写真乳剤を無色透明のガラス板に塗ったもので、光が当たると化学変化を起こし、その部分が白くなります。
この写真乾板は、光だけではなく放射線にも反応します。そのため、放射性物質を隠し持てば、念写したかのように字を描くことが可能になり、そこが疑われるポイントになっています。
ちなみに、念写の概念を確立し、『念写』という言葉は、福来友吉によるものです。現在でも耳にする『念写』の生みの親と言えます。福来友吉から、念写能力があると見られていたのは、長尾郁子です。
福来友吉は、もともと催眠心理学の第一人者です。それが研究を続けるうちに、催眠中の被験者が学術書の内容を透視するという現象を目の当たりにしたことで、超常現象を研究するようになります。
御船千鶴子が、広く知られるようになったのは、新聞からのようです。1909年、東京朝日新聞が、『不思議なる透視法』という記事を掲載。京都帝国大学前総長 木下広次に、千里眼を持つ 御船千鶴子が、治療を行ったというものです。二人とも、出身は、同じ熊本県です。翌年、1910年にも、新聞に御船千鶴子が取り上げられ、千里眼婦人として評判になったようです。
千里眼(せんりがん)という言葉の意味は、遠くの出来事や未来を見通す能力のこと、由来は、6世紀の中国までさかのぼります。目に見えないものを見通す 透視能力とは、少しニュアンスに違いがあるかもしれません。
この頃の日本は、1900年頃から、催眠術ブームが起こり、催眠療法を施す者も増え、社会問題になっています。催眠術により、記憶力が高まり、特別な能力が身に付くと考えられ、それが多くの人を惹きつけたようです。
御船千鶴子が17歳の時、中学の舎監・体操教員だった義兄(姉の夫) 清原猛雄により、『お前は、透視ができる人間だ』と催眠術を掛けられ、優れた結果が得られたことから、その後、修練することで能力を高めたとあります。御船千鶴子の父は、元士族で漢方医です。
清原猛雄は、1903年頃から催眠術の研究を行っており、御船千鶴子が催眠術を掛けられた時期と重なります。催眠術自体が、ブームになるほど流行っていたようで、1908年には、警察署処罰令が公布され、医師も含めて、催眠術を取り締まる対象とまでなっています。
催眠術ブームの10年ほど前には、英医療ジャーナリスト アーネスト・エイブラハム・ハートの催眠治療の危うさをつづった論文が哲学雑誌に取り上げられ、落語の中にも催眠術用語が用いられるなどしていたようです。
ドイツ人医師で催眠暗示療法の提唱者 アルバート・モールが書いた『Hypnotism』(1889年)は、夏目漱石からも評価され、この本をベースに書かれた本が多く出版されるようになります。この本自体は、催眠術のノウハウを伝えるというよりも、催眠療法というものについて、様々な視点から書かれたものです。
御船千鶴子の人柄については、物静かで信仰心が厚く、高い集中力があったと言われています。遺伝性の難聴だったことが、集中力を高めた一因と見られています。『透視と念写』(福来友吉 著)には、右耳と書かれているんですが、左耳という話もあります。
御船千鶴子の透視能力を知らしめた出来事が、二つあります。一つは、1904年6月15日に起こった常陸丸事件での第六師団の安否、もう一つは、三井三池炭鉱の坑口の一つ、万田抗の発見というものです。
常陸丸事件は、日露戦争中、玄界灘で陸軍徴傭運送船 常陸丸がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦3隻から砲撃を受け、沈没した事件です。
御船千鶴子は、当初、乗船していると見られていた第六師団が、乗船していないことを言い当てています。第六師団は、いったん長崎を出港するも、途中で故障があり、引き返したため乗船していないという理由まで答えています。この透視が行われた3日後、乗船していないことが事実だったことが明らかになります。
故障により、途中で引き返したという話が気になり調べたところ、最終的な行き先は違うのですが、常陸丸と共に、佐渡丸という輸送船も一緒に航行しています。常陸丸は沈没し、同じく砲撃を受けた佐渡丸は、両舷に水雷が命中するも沈没は免れたという記述があります。
恐らく、第六師団が乗船した船が、故障しなければ、佐渡丸に続き、連なって航行することになっていたのかもしれません。それが、何らかの理由で引き返すなどしたため、命拾いしたという話と考えられます。
もう一つが、福岡県荒尾市の万田抗(万田炭鉱)を透視により発見したことです。謝礼として、2万円(現在の価値で2000万円以上)を受け取っています。
三井財閥本社が御船千鶴子の話を聞きつけ、透視を依頼。福岡県大牟田市で透視を行ったところ、『もう少し南に真っ黒い固まりが見える』となり、それが何かまでは分からないと答えたそうです。
万田抗は、三井三池炭鉱の坑口の一つです。この他、宮原抗、三川抗など、いくつかの坑口があります。三池炭鉱は、もともと官営事業だったもので、官営事業の中では、高い利益を上げていた事業だったようです。それが、官営事業が次々と民営された流れから、1889年に三井に払い下げとなり、三池炭鉱社が設立されます。
位置的には、大牟田市の宮原抗から南に約1.5kmの位置に、万田抗があります。万田坑の第一竪坑は、1897年~1902年にかけて作られており、御船千鶴子が万田坑を発見したとなると、それ以前に透視したことになります。そうなると、常陸丸事件よりも先になります。
気になるのが、御船千鶴子の年齢です。御船千鶴子は、1886年、熊本県宇土郡松合村で生まれています。万田坑発見が1897年とすると、11歳の頃になってしまいます。一方で、千里眼が身に付いたという催眠術の話は、17歳の1903年。常陸丸事件は、翌年の1904年です。
常陸丸事件での透視については、『透視と念写』(福来友吉 著)にも記載があるため、間違いないと思います。ただ、万田坑の発見については、記述がないです。
ただ、これだけ広く、万田坑の発見が語られていることから、それに近いものがあったのかもしれません。例えば、万田坑自体はすでにあり、そこから、どの方向に掘り進めれば、鉱脈に突き当たるかなどです。
御船千鶴子が透視する前の話として、石炭がわずかしか出ていなかったという話があります。先に着工された宮原抗は、第一竪坑の着工が1895年です。1897年には、深さ141mで着炭、翌年の1898年から出炭を開始しています。1899年には、第二竪坑が着手され、ボイラー9基を増設、七浦抗から宮原抗へ設備を移すほどです。
宮原抗は、出炭開始した1898年でも、年間27万トンの出炭量があり、大正期には最大で51万トンを超えています。このことからも、石炭がわずかしか出ていなかったというのは、万田抗の話だったのかもしれません。
万田坑が、三井三池炭鉱の主力抗口になったのは、明治後期、1905年から1912年頃。これより前に、御船千鶴子が透視して、鉱脈を見つけたとすれば、時期的にも納得できます。
もしかすると、常陸丸事件の透視が先にあり、それほど時を経ずに、万田坑の透視が行われたのかもしれません。常陸丸事件の透視は、記録があるため、この成果から、石炭の透視を依頼したと考えると腑に落ちます。
三井三池炭鉱の敷地面積は、約2万平方メートル。サッカーコートで例えると、3面分ほどになります。ただ、正方形の土地ではなく、いびつなカタチで伸びているため、地図でみると、宮原抗と万田抗の間でも、結構、距離があります。
超能力者と言えば、現在では、日本テレビで不定期で放送される『FBI超能力捜査官』を思い出すのですが。それよりも、100年以上も前に、日本では、記録に残る超能力者がいたことになります。
ドラマの『トリック』、ホラー映画の『リング』などにも影響を与えた出来事と見られ、掴みきれない、謎めいたところがあります。