平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期の豪族。935年 平将門の乱が起こり、940年(天慶三年)二月に平貞盛と藤原秀郷(俵藤太 たわらのとうた)らによって追討。
平将門は、飛んできた矢が額に命中し亡くなったとあり、それが平貞盛によるものとも、藤原秀郷の息子によるもの、天から降ってきたものとも言われています。額ではなく、こめかみ目がけ、藤原秀郷が射たという話もあります。
諸説ある話なのですが、平将門の頭部に、矢が当たり亡くなったことに間違いはなさそうです。
年齢については、室町時代の軍記 『応仁記』に記された干支では、889年生まれになるのですが。一説には、討ち取られた時の年齢が38歳という話もあり、定かではないです。
将門の首は、平安京へ運ばれ、京都の七条河原にさらされました。これが、記録に残る最も古いさらし首になります。何ヶ月たっても腐らず、眼を見開き、歯ぎしりするような険しい表情だったようです。
その将門の形相を見た歌人 藤六左近(とうろくさこん)が歌を詠むと、将門の首が笑いだし、突然地面がうごめき、稲妻の中、『我に四肢を与えよ。もう一戦せん』と叫び、夜な夜なその声が響き。そして、ある夜、将門の首は体を求め、坂東(関東地方の古名)を目指して飛んでいったという。
その首は数ヵ所に落ちたとされ、将門の首塚はいくつかあり、もっとも有名なのが、住民が長らく怨霊に苦しめられたといわれる、東京都千代田区大手町1-2-1にある首塚です。首塚にまつわる奇妙な話が多いことでも知られています。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、当時、大手町にあった大蔵省庁舎は全焼。その仮庁舎の予定地に首塚が含まれ、工事により崩されたとあります。
その後、財政通で手腕を買われた早速整爾(はやみせいじ)大蔵大臣が、体調を崩し意識不明。原因不明のまま、一ヵ月後に57歳という若さで亡くなります。
その後、矢崎管財局課長ら14人の大蔵官僚が次々と亡くなり、武内作平 政務次官他、多くに怪我が続出。首塚の祟りと恐れられ、仮庁舎を取り壊し、首塚を元の場所に復元、盛大な慰霊祭が行われました。
早速大臣が亡くなったのは1926年(大正15年)9月13日、そして、1928年(昭和3年)に仮庁舎を撤去し復元、その間はわずか2年。取り壊しの期間を考えればさらに短くなります。
2年と考えても、14人が亡くなるということは、2ヶ月に1人以上亡くなっています。限られた場所、限られたグループ内であることからも、亡くなり方が異常です。
この他、1945年(昭和20年)、終戦を迎えた年、米軍のGHQが空襲による焼け跡のままだった首塚周辺に目を付け、巨大な駐車場を作ろうとします。
工事が進むにつれ、異変が立て続けに起こります。整備のため、土を掘り返すと、墓石が現われたため、ブルドーザーで掘り出そうとした途端、車体がバランスを崩し横転。2人が死亡。首塚まで工事を進めることが出来ず、中止せざるを得なくなります。
将門の祟りは、本当にあるのか、それとも、単なる迷信なのか。周囲の高層ビルが建ち並ぶ中、ここだけは時代が止まったまま、静かに同じ時を刻み続けている。これが、何を意味しているのか。
大蔵省の仮庁舎を建てる前、関東大震災で将門の首塚も崩れたため、工学博士 大熊 喜邦(おおくまよしくに)さんが、依頼され調査しています。
土を掘り起こしたところ石室があり、中に遺骨のようなものは無く、見るべきものがなかったという記述があります。
盗掘された形跡があったという話もあるのですが、気になるのは、『見るべきものがなかった』というところです。
受け止めようによっては、見る価値があるものがなかったとも捉えられ、何かはあったのかもしれません。
将門の首塚に限らず、どうにも手が出せないものというのが、あちらこちらにあるようです。